「遠征もユニフォームも自腹だった」元セパタクロー日本代表・青木沙和が、20年以上も競技を続けられた理由
元セパタクロー日本代表の青木沙和(あおき・さわ)さんは、現役時代に出場したアジア競技大会で4度のメダル獲得という快挙を成し遂げ、現在は東京ヴェルディセパタクローチームGM、日本セパタクロー協会所属のコーチとしても活動しています。
こうした功績の裏には、活動資金を得るために仕事をしながら競技を続けた学生〜社会人時代の苦悩があったと語ります。それでも変わらずに抱き続けたセパタクローへの愛、そして2026年に愛知・名古屋で開催される第20回アジア競技大会に向けた意気込みについてお聞きしました。
目次
セパタクローを始めて約1年後に日本代表へ!実感した世界との差
ー現役時代は日本代表としても活躍されていた青木さんですが、まずはセパタクローを始めたきっかけから教えてください。
セパタクローは大学2年生のときに始めました。小学校ではサッカーをしていて、そのときからリフティングが大好きだったので、そこでボールを蹴る感覚が身についたと思います。
その後、中学でバレーボール部、高校でソフトボール部に所属していたのですが、大学では「もう体育会の部活には入らなくていいかな」と思い、オールラウンド系のサークルで遊んで過ごしていましたね。
最初の1年間はその生活も楽しめていたのですが、段々と飽きてきてしまって……「やっぱり何かに本気で打ち込みたい」と思うようになったんです。
そのときに、ふと小学校の作文に「オリンピック選手になりたい」と書いていたのを思い出しました。まだ誰もやっていない競技であれば夢を叶えられるかもしれないと考えて、思い浮かんだのがセパタクローだったんです。
ーもともとセパタクローという競技は知っていたのですね。
中学校の体育の先生が、タイのお土産で買ってきたボールを体育準備室に飾っていて、当時からそれを借りて友達と遊んでいたんです。実は、タイはセパタクローが国技とされているくらいメジャーなスポーツなんですよ。
ーそこからどのような流れで本格的に競技を始めることにしたのですか?
とりあえず、セパタクロー協会に電話をかけてみました。会長の方から「練習があるから見学においで」と誘っていただき、当日行ってみると日本代表の練習だったんです。そこで「これは面白そう!」と思い、練習できる場所がないかを選手たちに聞きました。
私が通っていた大学にはチームが無かったので、日本体育大学や亜細亜大学の練習に参加することにしました。あとは誰でも入れるクラブチームがあると教えていただいて、板橋にある大山セパタクロークラブに、大学2年生から3年間所属していました。大学の友達からすると、ある日から突然ボールを持ち歩くようになったので驚いたと思います(笑)

©IWAMOTO KATSUAKI
ー日本代表になるという夢を叶えるまでのイメージは、当時からできていたのでしょうか?
最初に見学した練習にも日本代表の選手がいらっしゃったので、「頑張ったらあそこに行けるんだ」と意識することはできていました。競技人口も少なかったので、その中で認められれば可能性があると思い、できるだけいろいろな練習に参加するようにしていましたね。
競技を始めて半年後に出場した学生大会で優勝したことがきっかけで、日本代表候補の合宿にも呼んでいただけるようにもなりました。合宿中も先輩たちにたくさん質問をしながら練習を重ねて、最終的には世界選手権にサブメンバーとして参加させていただくことができたんです。
ー競技を始めて1年も経たない間に、世界選手権に出場するというのは凄いですね。
一緒の体育館で練習している先輩たちがすごく丁寧に教えてくれましたし、自分でも「リフティングを何回できるようにする」などノルマを決めて練習していました。本当に毎日セパタクローしかしていなかったですし、練習を重ねることで感覚が研ぎ澄まされるんですよね。
ー世界選手権での結果はどうだったのでしょうか?
それがどんな試合をしたのか覚えていないくらい、緊張して終わってしまいました(笑)
ただ、その半年後に開催されたアジア大会のメンバーにも選出していただくことができたんです。アジア大会は4年に一度開催されていて、セパタクロー選手にとっては最大の目標となる大会です。
私は最終戦だけ出場させてもらいました。相手は王者・タイだったのですが、それまでに受けたことない速いサーブが飛んできて、全部自分のミスで終わってしまったんです。
頭が真っ白になって足も動かないし、コート内の先輩たちの声やベンチの声も途中か
ら耳に入ってこないくらいでした。そこで世界との差を痛感して、「これが世界のセパタクローか」と思い知らされましたね。
アジア大会での金メダル獲得のために、新たな出会いと決断
ー日本代表として活動するようにもなり、大学卒業後もセパタクロー中心の生活を送っていたのでしょうか?
大学卒業後も就職はせず、アルバイトをしながらセパタクロー中心の生活を送っていました。大学3、4年生になると友達は就活を始めていましたが、その間も私はボールを蹴っていましたね。
当時、日本以外の国の選手はセパタクローだけで生活できていたのですが、私たちはバイトをしてお金を貯めながら活動するしかない状況で。大会の出場費用や遠征費、ユニフォームも自分達で払っていました。
海外の選手とユニフォーム交換をすることもできないですし、「そのユニフォームは何年着ているの?」と聞かれたこともありました。それでも別の仕事をしながら好きなセパタクローを続けている日本人選手の様子は、海外の選手からしたらすごく楽しそうに映っていたようです。
ー海外と比べるとそんなに厳しい状況だったのですね……その後は環境が変化するタイミングなどはあったのでしょうか?
27歳のとき、アスリート社員を募集していた企業と繋がることができたんです。オフィスの売店にドリンクなどを提供する事業を展開している企業だったのですが、そのオーナーが「仕事を探しているアスリートを探しているらしい」と。ここで初めて企業に正社員として就職することになりました。
最初は内勤だったのですが、途中から車を運転して都内のオフィスを回っていました。朝5時に起きて仕事に行って、仕事が終わったら練習という生活を送っていました。
ーそのような生活を何年間続けられたのですか?
2年くらいだったと思います。29歳のアジア大会を銅メダルで終え、4年後のアジア大会で金メダルを目指したいと考えた時に、この生活を続けることは難しいなと感じました。環境を変えるか、セパタクローを辞めるかの2択だなと。
そのタイミングで、ゼビオ(ゼビオナビゲーターズネットワーク株式会社)からアスリート雇用の話をいただくことができました。人事の方と面接をした時に「金メダルのためにはここしかない」という私の熱量を受け止めてくださって。会社としても、競技の認知度ではなく、情熱を応援したいという想いがあったようで、すごく感謝しています。
セパタクロー界でも、アスリート社員として企業に勤める事例は初めてでした。遠征費や備品を提供していただいたり、勤務扱いで練習をすることができたり、今までにない形で競技に取り組むことができました。もちろん仕事も、店舗での接客やレジ打ちから本社での宣伝販促など、たくさんのことを楽しみながら経験することができました。
現在は、グループ会社のクロススポーツマーケティング株式会社に所属しながら、東京ヴェルディクラブに出向という形で活動しています。

©IWAMOTO KATSUAKI
引退後はチーム運営、指導者として奮闘「セパタクローの現場にいることが好き」
ー東京ヴェルディはサッカー以外にも複数の競技チームを運営されていますが、セパタクローチームはどのような経緯で誕生したのでしょうか?
2020年に総合型クラブとして競技チームを増やしていく流れが生まれたなかで、当時私が所属していたチームに、「ヴェルディの一員にならないか」と相談があったことがきっかけです。チームメイトも全員がヴェルディに移ることができるとのことだったので、みんなで相談して決定しました。
あとはヴェルディが総合型クラブとして掲げるマルチスポーツの方針と、子どもたちにセパタクローのことを知ってもらう機会をつくりたいと考えていた私の想いが合致したことも大きいです。
ー選手へのサポートや環境などに変化はありましたか?
ボールの数を気にせず練習できるようになったり、ゼビオのオリジナルブランドでユニフォームを作成していただいたり……それまでは自費での活動が当たり前だったので、少し負担が減るだけでも驚きでした。
ー日本代表として活躍されていたなかで、引退後はどのようなキャリアを歩んでいったのですか?
37歳で出場したアジア大会で引退を決め、その後は指導者としての活動を経て、現在のポジションに就いています。セパタクロー協会では強化コーチとして指導していて、東京ヴェルディクラブでは運営を中心に担当しています。
選手との関係性は、協会では選手と指導者、ヴェルディでは仲間という距離感ですね。選手が少しでも良い環境でセパタクローができるようになったらいいなという思いで活動しています。ここ数年で競技全体の組織体制も整備されてきたと感じています。

©TSUTOMU TAKASU
ー今後はさらなる発展が期待できますね!これまで最前線でプレーしてきた青木さんが考えるセパタクローの魅力とは、どのような部分にあるのでしょうか。
やればやるほど上手くなる、成長できるところですね。世界との差はあるにしても、少しずつ戦える時間が増えたり、通用したりすることがすごく嬉しかったし楽しかったです。強豪国と試合をして、そして点数を取ることの喜びが、これまで続けてきた理由かなと思います。今はコーチですが選手と同じか、それ以上に嬉しいです(笑)
また、そういった国々の選手とのコミュニケーションや、同じ競技を一生懸命やってるからこそ生まれる関係性もセパタクローの魅力だと思います。
私自身、強化の活動やチームの練習、体験会でも国内外の大会でもなんでもセパタクローの現場にいることが好きなんだと思います。今は初心者の方々が来てくれるスクール活動も楽しい現場です。

写真提供:一般社団法人東京ヴェルディクラブ
ー最後に、日本で開催されるアジア大会に向けた意気込みを聞かせていただけますか?
私も現役時代に最大の目標としていたアジア大会が、まさか日本で行われることになり興奮しています。日本セパタクロー協会が一丸となってメダル獲得を目指していますし、世界のレベルを間近で見ることができるチャンスなので、ぜひ注目していただきたいと思います。