高橋成美が伝えたいこと。「将来を見据えた指導を」

氷上で繊細なパフォーマンスを繰り広げるフィギュアスケーターたちが、競技外では厳密な体重管理を求められていることをご存知でしょうか。とりわけペア競技では、男性パートナーに身体を持ち上げられる分、女子選手はより身体の軽さが求められます。

今回お話を伺ったのは、2012年世界選手権で銅メダルを獲得し、2014年ソチ五輪に出場するなど、長年日本のペア競技を牽引してきた高橋成美(たかはし・なるみ)さん。現在はJOCアスリート委員としても活躍されています。

過酷な体重管理の影響もあり、初経を迎えたのは26歳。フィギュアスケート界のリアルな現状や引退当時の思い、自身の経験を発信する理由を伺いました。

(聞き手・文:花城みなみ/元フィギュアスケート ドイツ代表)

日本人選手がペアスケーティングを続ける難しさ

—高橋さんがペア競技に移行したきっかけや、その当時のお話をお聞かせください。

一番の決め手は、層の厚さでした。当時のフィギュアスケート界には、上(シニア)に浅田真央ちゃんがいて、下(ノービス)からいずれ村上佳菜子ちゃんが上がってくるという状況。このまま頑張ってもシングル競技では五輪に行けないと薄々感じていて。そう悩んでいた時期に、父親の転勤で中国の北京に引っ越したんです。

当時中国は「ペア大国」でした。日本にいる頃からペア競技を見ることがとても好きだったので、試しにペアを組んでやってみたんです。実際にやってみると、男性パートナーに身体を持ち上げられる技の多いペア競技では、身長の低さが有利に働くと分かり、自然な流れでシングルから移行していきました。

—ペア競技の方が向いていた部分もあったんですね。

体型にも恵まれていましたし、上手な中国人選手が次々と「ペアを組みたい」と声を掛けてくれました。練習すればするほど上達して、結果的に1年で中国国内5位のレベルにまで到達したんです。

ただその後、父親の転勤により再び日本に帰国すると、日本国内ではパートナーが思うように見つかりませんでした。「私はペアで上手くいっている」と思っていたのに、いざ中国を離れると「パートナーがいないと何もできない」ことに気づきました。

また、ペアはシングルと違って2人が並走するので、広い場所が必要です。一般滑走の時間(初心者から上級者まで誰もが滑走できる時間)には到底練習できないですし、ペアの相手が見つかっても練習時間を上手く確保できませんでした。

引退を考えるようになっていた高校1年時に、カナダの著名なコーチに宛てて英語でメールを送ってみたんです。そこから「最後の思い出作り」として、カナダ人パートナーとトライアウトをしました。

ラッキーなことに、そのパートナーとの相性がとても良く、そのまま日本の高校に留学届を出してカナダで競技を続けることに。あらためて「ペアってたのしい」と思えたんです。

「無月経=恵まれている」と思っていた。

—現役時代の体重管理や生理について伺わせてください。以前、「現役引退するまで、生理がずっとこなかった」とお聞きしました。

私が初めて生理を経験したのは、26歳を過ぎてからでした。驚かれると思いますが、それまで生理とは無縁の生活を送ってきたんです。

現役時代は無月経であることを「恵まれている」とさえ感じていました。他の選手たちが体重の変化や月1回のつらさを抱える中、私だけ毎日絶好調のコンディションでしたからね。またペアスケートは男性に身体を持ち上げられる分、「身体は軽ければ軽いほど良い」と思っていたんです。なので現役時代は、生理が来ないことをラッキーだと思っていました。

一方で、コーチやお医者さんからは無月経を心配されていました。骨が弱くなって骨折する可能性があること、将来の健康に悪影響が出かねないこと。身体への様々なリスクを説明してくださった上で、生理を迎えるための治療をすすめてくれたり、塗り薬を処方してくださったり、私以上に私の身体に向き合ってくれました。にも関わらず私は、塗り薬を塗ったと見せかけて塗らなかったりと、自分から生理が来ることを遠ざけていました。

— 26歳で初めて生理が来たときは驚いたと思います。

最初は生理だと思いませんでした。ナプキンの買い方一つ知らなくて、どんなものを選べば良いかも分からず……。私自身まだ子供であれば周りの大人たちに相談できたのかもしれませんが、当時26歳だった私には、今さら誰かに相談する勇気はなかったです。それは今まで無月経だったと告白する行為ですから、私にとっては難しくもあり、恥ずかしいことでもありました。

でも先輩であり友達の鈴木明子ちゃんが、アスリートの生理について講演会やメディアで情報発信をしているのを見て、実はみんなも悩んでいると知ったんです。それ以来、無月経だったことは決して変なことではないと思えるようになり、周囲にも相談できるようになりました。

覆されつつある、「軽ければ軽いほど良い」という共通認識

— 先ほど、ペア競技は「軽ければ軽い方がいい」とお話されていましたが、フィギュア界で体重管理に悩む選手は多いですか?

多いと思います。成長に伴い急激に体重が増えるだけでなく、女子選手は年齢を重ねるにつれて、身体に女性らしいカーブが出てきます。まっすぐだった軸が歪むと、回転にぶれが生じてしまい、跳べなくなるケースもあるんです。

それ以外にも転倒リスクが上がります。成長によってお尻が大きくなると、どうしても転倒に繋がりやすくなる。演技中に尻餅をつくと大幅に減点されますし、理想の体型を維持することが成績に直結する競技なんです。

—胸もそうですよね。お尻や胸を「回転を妨げる遠心力」や「転倒につながる重力」として見ることは、成熟拒否にも繋がり得ると思います。

一昔前までは体型変化を迎えた子を見捨ててしまうコーチもいました。そのような指導者のもとでは、「大きくなったら見捨てられてしまう」と、成長への恐怖心を抱く選手も増えてしまいます。とくに中国ではその考えが強く、例えばナショナルチームの選考基準として「選手の両親は痩せ型かどうか」という指標があったほどです。

現在はそれが一転、世界の舞台で勝つためには健康的な身体こそ重要であると、フィギュアスケート界でも知れ渡るようになってきました。実際にそれは、現在活躍中の選手たちによって証明されつつあると思います。

—旧来のコーチングの影響が大きいのでしょうか。

コーチによるのですが、一昔前までは早く始めることが良いとされていました。早く始めれば、トリプルジャンプまで跳べるようになる確率が上がるんです。でも体形変化後に同じやり方でジャンプに挑んでも、当然うまくいきません。

そのため、体型変化を見据えた指導をしたり、タイミングをしっかりと観察して徐々に指導法をシフトチェンジするなど、選手にとっては指導者のサポートや教え方がとても重要なのです。

昨今ロシアのドーピング問題もありましたが、15歳以上の選手を切り捨てるような勝利至上主義の指導者は、当然将来を見据えた指導をしません。そのような指導者は、もうほとんど日本にはいませんが、完全にいなくなったとは言いきれないですね。

—とりわけお金のかかるフィギュアスケートでは、指導者だけでなく親御さんの声も大きくなりがちな競技だと思います。

実はコロナ禍に突入してから、スケートリンクにご両親が入れなくなった時期が3年ほどありました。その時期にコーチが選手にしっかりとアプローチできるようになり、将来を見据えた指導が可能になったんです。そのような観点からは、従来はご両親による影響が大きかったと考えられます。

時々コーチ業をやらせていただいている私自身の課題でもありますが、指導者は責任を持って選手のご両親を説得すべきだと思っています。

行きすぎた勝利至上主義は、スポーツ界全体の課題です。スポーツに対する誤った価値観こそが、そうした事態を引き起こすのだと思います。

現役引退後に抱いた「虚無感」

—引退するまでの競技生活はいかがでしたか?

正直、引退までの数ヶ月は、ズルズルとフィギュアスケートにしがみついていました。とっくに「これ以上は上手くならないだろう」と気付いていたのですが、一方で「スケートしかない」と思い込んでいた部分もありました。

でも今振り返ると、つらい時も楽しかったです。両親からは、「スケートを続けたいなら勉強しなさい」と常に言われていたので、競技を続けるためのモチベーションとして勉強もできました。学校の勉強や語学学習も、スケートに必要だったからこそ頑張ることができたわけで、だから今があるのは全部スケートのお陰かなとも思います。

—引退を決めたきっかけについて教えてください。

長年の怪我からなかなか回復しなかったことや、大学にほとんど通えていなかったこと、そして平昌五輪を逃したことなどが重なり、少し落ち込んだ状態で引退を決めました。

私は平昌五輪の補欠選手だったので、開幕直前まで練習していたんです。ただ平昌が開催された時点で引退が確実となり、人生で初めて虚無感を味わいました。

それからは練習する必要もないので、ソファに一人寝転がってドラマや映画を見るだけの生活。テレビをつけると、自分が行けなかった平昌五輪が放映されているし、楽しそうなバラエティ番組を見ることもつらかったです。

ただ私の場合は幸か不幸か、大学を卒業していませんでした。それがちょうど春休みの時期だったので、4月になれば否が応でも外に出て大学に行かなければなりません。やるべきことがあったので、早く切り替えられたのかなとも思います。

あともう一つ、この挫折を乗り越えられたきっかけがあるんです。それは、ずっとやりたかったアイスホッケーを始めたこと。アイスホッケーを通じて、身体を動かすことが心身ともに良い影響を与えるとあらためて実感しました。その時期は大学とアイスホッケーに救われていたと思いますし、今もアイスホッケーは趣味でプレーしています。

JOCアスリート委員として選手と協会のパイプ役に

—JOCでのお仕事の内容について教えていただきたいです。

オリンピックに関する業務に携わっています。アスリート委員としては選手たちが不安や不満に感じていることをヒアリングして、JOCで共有し改善に繋げています。

—選手たちはいまどのような悩みを抱えているのですか?

競技によります。発信内容が制限されていることに悩んでいる選手もいれば、選考基準に疑問を感じている選手も。それ以外にも、環境や資金の振り分け方などさまざまな悩みがあります。

—高橋さんはJOCの育成事業にも関わられています。引退して立場が変わった今、アスリートたちを見てどのようなことを考えますか。

選手が思っていることは、なかなか形になってこちらまで伝わってこないのが現状です。徐々に改善されつつありますが、JOC側も選手側も待ちの姿勢であることが多いので、私たちから意見を拾いに行く必要があると感じています。

引退しても表現者であり続けたい

—芸能活動を始めたきっかけについて教えてください。

もともとのきっかけを遡ると、幼少期の私は「モーニング娘。」に憧れていて、アイドルになりたかったんです。ただ音痴だし、飛び抜けた容姿もなかったので、アイドルになる夢は早々に諦めました。

その後、「スケートで有名になったらテレビに出られる」と思っていた時期もありました。でもその頃のフィギュア界には、浅田真央ちゃんや高橋大輔選手をはじめとする大スターが勢揃い。私のようなペア競技の選手はどんなに頑張ってもメディアに取り上げていただける機会が少なかったんです。

例えば試合前の記者会見で、日本代表選手団がガッツポーズをして集合写真を撮るんです。そのときに、大体ペアの私達が端っこに行かされて、「ちょっとだけ間隔を空けてもらえますか」と記者の方に言われます。その翌日の朝刊を見ると、ペアの私達が綺麗に切り取られていました。それが当たり前で、悔しかったのもあります。

「発信力の強い人になりたい」と思うようになったことも一つのきっかけです。フィギュアスケートを通して培ってきたものはたくさんあります。それを自分の中に留めておくだけでなく、何かしらの形で還元できればと思ったんです。お世話になったフィギュアスケート界へも多少は恩返しできるのではないかとも思いました。単純に「表現者であり続けたい」という思いもありますね。

—芸能活動は実際にやってみてどうですか?

めっちゃ楽しいです。フィギュアスケートを辞めてからしばらくいろんな事にチャレンジしたのですが、失敗して悔しくて眠れないとか、失敗するのが怖いという経験をフィギュアスケート以外でしたことがなかったんです。

でも芸能活動を始めてから、テレビの収録の前日に眠れなくなったり、しっかり喋れなかったことに対して真剣に悩んで、改善しようと努力する自分がいて。そんな自分に対して「ひとつ夢を見つけた」と思いました。3歳から30歳までフィギュアスケートの夢に助けられてきましたが、今は芸能界の夢に助けられています。

—最後にB&の読者のアスリートたちに伝えたいメッセージはありますか。

アスリートは選手を引退しても、その延長線を進む必要もなければ、別の道を進む必要もないということです。ちょっとかっこいい言い方にはなってしまいますが、人生に決まった道はありません。自分が踏み出した道こそが道ですから。

スケートをやめて「道から外れてしまった」と考えた時期もありましたが、全くそんなことはなかったですね。全てが今に繋がるためのステップであったと、かつて悩んでいた頃の自分とこれを読んでくださっている皆さんに伝えたいです。

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