「本当に英語わかってる?」元NBAダンサー・小笠原礼子が、自分らしさに気づかされた瞬間

2020年夏、Bリーグ・サンロッカーズ渋谷のチアリーダー『サンロッカーガールズ』を引退し、NBAへの挑戦を宣言した小笠原礼子さん。デトロイト・ピストンズのオーディションに参加し、見事合格を勝ち取りました。2年間のNBA挑戦を終え、帰国した彼女が、言語の壁や体型維持などの困難を乗り越えて見つけた挑戦の楽しさについて語ります。小笠原さんの2年間の経験と現在の活動についてお話を伺います。

<渡米前にB&が取材した記事はこちら!>

(インタビュー/竹村幸・小池美月 文/小池美月)

NBAダンサーとして過ごした時間は、夢の中で生きている感覚

ー 以前、NBAダンサーとしてアメリカで挑戦される前に取材させていただきました。現在はすでに帰国されておりますが、振り返ってみてどうでしたか?

現役NBAダンサーとして過ごした日々は、毎日が充実していて、夢の中を生きているという感じでしたね。

毎日やるべきことに追われながら生活をしていたので、現地にいる間は素晴らしい環境でダンスができていることをあまり実感できていなかったんです。帰国して振り返ってみると、すごい経験をしていたんだなと自分を誇らしく思えるようになりました。

アメリカにいる間は、お仕事に練習に無我夢中で過ごしていましたが、もっと噛み締めながらやれてたらよかったなと。でも後悔なくやりきることができました。“挑戦を全うした”という自信があります。

ー初めてNBAの舞台に立った時の感覚はどうでしたか?

もう、本当に泣きそうでした。NBAダンサーとしてその舞台に立つことは簡単ではなかったので…。アメリカの国家斉唱を聞いた時に今まで大変だった出来事やそれまでの過程を思い出して、とても感動的でしたね。あの興奮は忘れられないです。大変だったけど、アメリカに来てよかったなと思いました。

ー感動を噛みしめる時間がないほど忙しかったのだと思うのですが、毎日どのように過ごしていたのですか?

毎朝5時に起床して、6時にはスポーツジムに出社。午前中はダンスインストラクターとしてレッスンを行い、昼食後に自主練をして、夕方5時からチーム練習といったスケジュールでした。

早朝から仕事をして、夜遅くまで練習するという毎日だったので、アメリカでの日々はあっという間に過ぎていきましたね。結果的に充実した生活を送ることができたと思います。

ーアメリカでのお仕事はどういう経緯で見つけられたのですか?

現地で直接見つけました。家の近所にあるジムに通っているうちに、スタッフの人と仲良くなって、「何かお手伝いできることないかな?」と聞いてみたところ、お仕事を頂くことができたんです。

元々NBAダンサーとして米国ビザを取得していたため、働くのであればダンスに関わる仕事が絶対条件。そんな中で紹介してもらったダンスインストラクターのお仕事は、私にとってまさに打ってつけのお仕事でした。

英語が完璧じゃなくても、あなたはここにいるだけで素晴らしい

ー渡米してからも大変だったと思うのですが、どこが一番大変でしたか?

やはり、英語ですね。初めての海外生活で、生活や手続きが何もできなくてストレスでした。日本では当たり前にできていたこともアメリカでは全然できなくて、スーパーに行くことすらままならない時もありました。

コミニュケーションが得意な方だったので、最初はわからない英語も笑顔で誤魔化していたんです。本当は英語を理解できていないのに「YES、YES」と。ある日、チームメートに「本当に分かってる?」と聞かれてハッとしました。

分かっていないのに、分かったふりをすることはコミュニケーションとは言えないし、いま振り返ると失礼なことをしていたなと思います。彼女も決して私を責めるつもりはなく、お互いをもっと分かり合いたいと思っての発言で、率直に言ってくれてありがたかったです。

チームに加入して1年目は英語はもちろんのこと、ダンスも毎日ついていくのに必死でした。自信を無くしている中、2年目の時にチームメイトから「英語が完璧じゃなくても、あなたはここにいるだけで素晴らしい」と言ってもらって嬉しかったことを覚えています。そこからは完璧でなくても良いんだと思えるようになり、アメリカでの生活が楽になりましたね。

ーアメリカでの経験を通じて、ご自身の中で変わった価値観はありますか?

日本でチアをしていたときは、体型に関して少しネガティブな印象がありました。私は、体格が少し大きいので、どんなに頑張って痩せても華奢になれないのがコンプレックスだったんです。一生懸命ダイエットをしていても「私は太っている」と思い込んでいる時期もありました。

そんな中、アメリカでピタッとした体のラインが出るユニフォームを見て「これは私の体には合っていないかも」と仲間に言ったとき、当時のコーチが「ユニフォームが小さいだけ。あなたはヘルシーよ。立派に綺麗に筋肉もつけて、ダンスもやっている」と言ってもらえてから、体型へのコンプレックスが薄れていきました。「あ、この体を許して良いんだ」と思えて、気持ちがすごく楽になりました。

日本に帰国してからは、アメリカにいる時より自分の体型や外見について考える機会が増えました。日本ではアメリカと比べると、周りとの比較が避けられない環境が潜在的にあると感じています。

アメリカでの経験を振り返ると、外見よりも自分自身を受け入れることが重要だなと。痩せている痩せていないではなくて、自分は自分のままで良いし、「自分が自分の体にどう向き合っているか」を大切に生きようと思いました。

「やりきった」帰国を決めた瞬間

ー帰国を決めたきっかけについて教えてください。

2年目のシーズンが半分くらい過ぎた頃に「やりきったな」と感じ、来年も同じ舞台で踊っているイメージが湧かなかったんです。もう引退なのかもと思った瞬間でしたね。

実は引退の時期は決めずに、渡米したんです。アメリカ滞在中は目の前のことをやりきろうと。毎日新しい技術を習得しながら、必死に食らいついて練習しようと覚悟していました。

運動神経がすごく良いわけではないので、アクロバットな技を習得するのがすごく大変で、体がボロボロになりながらやっていましたね。それもあって何年も続けているイメージがなかったのかもしれません。自分の体のことを考えたときに、決断しました。

自分の内にあるワクワクを信じて

ー引退して、帰国後はどのような活動をされているのですか?

現在は、ディレクターや指導者として活動しています。元々指導者になりたくて、高校生のときからキャリアを築いてきました。必ずしも良い選手が良い監督になるとは限りませんが、私は自分がちゃんと経験したことだけを教えたいので、説得力を持たせるためにある程度のキャリアが欲しいと思っていたんです。

そういった意味で、NBAダンサーとしてアメリカで活動できたことは、私のキャリアに大きく影響しています。ディレクターや指導者としての活動を通じて、次の世代に何かを与えられることが、今の私の喜びです。

ー将来的な目標について教えていただけますか?

私の目標は、多様性のあるチームを作ることです。アメリカでは多様性が当たり前で、私も外国人として受け入れられました。日本では少しでも周りと違わないように合わせる風潮があると感じていましたが、アメリカではそれが逆で、多様性が尊重される環境でした。

2つ目に所属したチームはユタ州で活動していて、その地域では宗教やジェンダーに対してもオープンでした。アジア人だからと差別されたこともないですし、チームも男女混合。みんなのバックグランドが違うからこそ良いパフォーマンスができることを実感しました。日本でも同様のチームを作りたいと思っていますし、私はダンスを通じて、多くの人々に希望を与えることができると信じています。

ー最後に、女性アスリートや挑戦を考える方々へのメッセージをお願いします。

挑戦することは大きな一歩かもしれませんが、まずは小さな一歩を踏み出すことが大切です。そして、困難に直面した時は、自分の内にある「わくわく」を信じて、前進してください。何かが上手くいかなくても、それが次の一歩に繋がることもあります。自分の夢や挑戦に向かって、ぜひ一歩踏み出してみてください。

挑戦や夢は大きな一歩で全部叶えようと思うと発展しませんが、一歩踏み出すと、案外いろいろな人が助けてくれたり、「もう一歩行けそう」と見えてくるものです。ぜひ何かに挑戦するときは深く考えずに、まずは勇気を出して一歩踏み出してみてください。駄目だったら戻ればいいし、一旦は「小さく一歩出ること」が大事だなと私は思っています!

ー今後も応援しています。ありがとうございました!

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