萩原智子「傷口を見ても後悔はなかった」自分で決断することの重要性

シドニー五輪競泳日本代表の萩原智子(はぎわら・ともこ)さん。引退後は、日本知的障害者水泳連盟の副会長、そして4月にスポーツ少年団副団長に就任するなど、スポーツを通した青少年の健全育成に取り組まれています。

2004年に現役を引退した後は、メディア出演や水泳の普及活動を行なっていましたが、後輩たちの頑張りに感化され2009年に復帰宣言。ロンドン五輪を目指すことになりましたが、選考会の1年前に子宮内膜症と卵巣嚢腫のチョコレート嚢胞の診断を受けます。

日本代表として戦うプレッシャー、目標の試合を前に発覚した病気……さまざまな経験をされた萩原さんだからこそ、スポーツを通して「心と体の大切さ」を実感されています。競技を楽しめるようになったきっかけ、そしてスポーツを通して伝えたいことは。

(聞き手/文 競泳元日本代表・竹村 幸)

結果が「出てしまった」。苦しんだシドニー五輪

ー萩原さんは、いつも前向きに競技に取り組まれていましたよね。でも期待も多く、相当なプレッシャーの中で戦われていたと思います。心への影響はいかがでしたか?

一度目の引退前は、水泳に対して「こうあるべきだ」という思い込みが強かったと思います。自分が置かれている立場を考えて、何を求められているのかを先読みして、自分自身に押し付けていたところがありました。

オリンピック出場を目標にして挑んだシドニー五輪の選考会で、自分が思っている以上の結果が出てしまったんです。2種目共に世界ランキング3位以内になり、一気にメダル候補に躍り出てしまいました。普通なら嬉しいことですが、そこまでの気持ちの準備ができていなくて。シドニー五輪に向けて報道陣の方が一気に増えて、緊張感やプレッシャーを感じるようになりました。

国内で行われた世界大会では、自国開催というプレッシャーと過労によって過呼吸で倒れてしまった事がありました。その後すぐにアジア大会があったのですが、試合に出場することができず、代表を辞退したこともあります。

ー代表から離れる決断をされたときは、どのような心境でしたか?

水泳から離れた時間は、自分を見つめ返す時間になりましたね。体調が落ちいた頃に、先輩から「富士山に登ろう!」と誘っていただいたんです。私は山梨県出身ですが、富士山は眺めるものだと思っていたので登ったことはありませんでした(笑)。でも登ってみると人生と似ているなと感じました。振り返ると自分が登ってきた道が見えて、自分史をたどっている様でした。

富士山登頂をきっかけに今までの水泳を振り返り、何が楽しくて苦しかったのか、その上で自分がチャレンジしたいと思える瞬間を作っていきたいと立ち返れた瞬間になりましたね。

ーどんな経験も前向きに捉えられる考え方が素敵です。アスリートは、「〜しなければならない」という考えを持っている方が多いかと思います。

大きく変わったと感じたのは、一度引退して復帰した後です。

引退前は、強さを演出するために取材を受けても本音で話さない自分がいました。かっこつけていたという言葉がすごく合っていたと思います。2009年に復帰してからは、素の自分で競技に取り組めるようになりました。

ー素の自分で取り組めるようになったきっかけはありましたか?

引退後、現役選手にインタビューする機会がたくさんあって、みんな素直だなと感じたんです。自然に、ありのままをさらけ出していて。特に北島康介さんは、良い時も悪い時も全部見せていて、その姿に涙を流したこともあります。かっこいいなあと。

自分に足りないものを突きつけられた気分でしたね。もっと周りを見て、吸収すれば良かったと。みんなの姿を見て、もう一回頑張りたいという気持ちになって復帰を決意しました。

ーその翌年、日本代表にも復帰されましたね。

3年半ぶりの日本代表はチームの雰囲気も変わっていて、私もさらに変わるきっかけをもらえました。チーム全体で年齢関係なく意見を言い合える時間は、私には刺激的でした。そこからさらに変われたなと。

みんなからアドバイスをもらえたことで、年齢を重ねても一人で抱え込まなくて良いんだと思えるきっかけになりました。葛藤ばっかりの水泳人生だったけど、チャレンジしたことで楽しい水泳に出会えたことが私の中では大きいですね。スポーツって楽しいんだと思えるきっかけになりました。

「大きな腫瘍が取れたんだから、速く泳げるよ」

ー現役復帰されてから、子宮内膜症とチョコレート嚢胞の手術をされていますよね。当時、智子さんのSNSで拝見いたしました。

ちょうどロンドン五輪の選考会1年半前に、体調が悪くなりました。寝汗がひどく、排便痛、胃痛、背中も痛くて……マッサージの先生からも背中の硬さを指摘されましたが、練習からの過労だろうと片付けていました。

ただ、やっぱりおかしいので病院に行ったら、チョコレート嚢胞(※)と診断されました。治療しなければ、将来、不妊症になる可能性を伝えられた時は、頭が真っ白になりました。いくつか病院を回りましたが、ドクターとの相性が悪く、折り合いがつかなくて…。「不妊症になるよ」と心無い言葉を突きつけられた時は堪えましたね。

そんな中、最後の最後に日赤医療センター(東京)を受診したときに、杉本先生に出会いました。分かりやすいように絵を書いて説明してくださったり、何通りかの治療方法を提示してくれたり、ようやく安心して相談することができました。

※チョコレート嚢胞:子宮内膜が卵巣に発生することで起きる子宮内膜症の一種

ーちょうど1年後にロンドン五輪の選考会を控えたタイミングでの治療は、決断が難しかったと思います。

私の場合は排便痛や胃痛があったことから、多臓器との癒着がひどい場合も考えられました。将来のことを考えると早期の手術が好ましいのですが、五輪選考会の1年前ということもあってすごく悩みました。

最終的には、自分自身で手術をする決断をしました。手術がちょうど試合の日で、テレビでみんなのことを応援していたのを覚えています。ちょっと前までは一緒に練習していたのに、自分がそこにいないのは不思議な感覚でしたね。

ー当時高校生だった私は、萩原さんの投稿のおかげで生理痛を放置することの恐ろしさやチョコレート嚢胞のことを知りました。

SNSでの発信は迷っていたのですが、私と同じように苦しんでいる人はいるだろうと思い公表しました。

私も情報がなかったので、ひどくなっていく生理痛を痛み止めだけで対処をしていました。月に1回我慢してやり過ごせばいいんだって。でも、それではだめなんだと伝えていく必要があると実感しました。

公開後は、たくさんの方々からメッセージをいただきました。「私も今度手術します」「妻が同じ病気なんです」「その時の症状を教えて下さい。」「こんな症状がりますが、病院に行った方が良いでしょうか?」など、自分だけではないんだと勇気をもらったと同時に、みんなも相談できる場所が少ないんだと感じました。

手術後に、私のブログを読んだ室伏由佳さん(ハンマー投げ元日本代表)がメールを送ってくれました。室伏さん自身も婦人科の手術を経験され、その時の経過が詳しく記されていました。手後、何日後に歩けるようになるのか、走れるようになるのはいつだったのか、腹筋はどれぐらいからできるようになったのかなど。何も知らなかった私にとって、室伏さんからの情報は回復への道標でした。

ーそういった情報があると少しでも安心できる材料になりますね。手術後、復帰への道のりはいかがでしたか?

手術後の体は泳げるような状態ではなかったので、復帰するのかすごく悩みました。その中で「かっこ悪くてもいいし、自分がやりたいようにやってみたら」といってくれる方が多く、主治医の先生から「こんなに大きな腫瘍が取れたんだから、軽くて速く泳げるよ」って言われた時は、久しぶりに笑って心が軽くなり、復帰の覚悟が決まりました。

そこから選考会までの約10ヶ月は水泳一色で過ごし、泳げる状態まで体を戻すことができましたが、五輪に行くことはできませんでした。でも、あの時決断した自分に後悔はありません。水着に着替える時に見える手術の傷跡も、病院のベットの上にいた頃よりも元気になれている!前に進めている!という成長の部分にフォーカスできたこと、自分を褒めて毎日を過ごせたことで、自分を肯定できるようになりましたね。自分が選んだ道で、挑戦できたことで気持ちはすっきり泳ぎきることができました。

子どもたちがスポーツを楽しめる社会に

ー引退後は、複数の競技団体でご活躍されていますね。先日もスポーツ少年団の副本部長にも就任されたと拝見しました。就任おめでとうございます!

ありがとうございます!打診があった時は、正直驚きました。私で良いのかなと悩みました。ただ私はスポーツ少年団の経験がないからこそ、新鮮な立場で、しがらみに囚われず、フラットに物事を見て意見を言えると考えました。

また本部長の益子直美さんは、選手の時に取材をしていただいてから長いお付き合いをさせていただいています。未来の子ども達の笑顔を守りたいと強く思っている益子さんと、これから一緒に活動できることを楽しみにしています。少しでも変わるきっかけを作れるようにサポートしていきたいです。

ー水泳連盟でも、アスリート委員会を立ち上げから10年間携わられていましたね。

連盟とアスリートを繋ぐきっかけになればと、立ち上げから参加させていただきました。ただ、1から組織を作り上げる難しさを実感しました。できたばかりの組織は信頼度が低く、なかなか思うように活動ができませんでしたね。

選手たちのためにアスリート委員として機能するためには、組織の中で信用を勝ち取る必要がありました。そのために、普及活動やジュニア世代へのアプローチ、勉強会をひらいたりして地道に活動を続け、5〜6年経過した頃にやっと兆しが見えました。

東京五輪を後に、アスリート委員や強化現場での声をまとめて特別強化委員会に提出してみたんです。それまで強化現場へ意見を出すことは、御法度だったので、勇気のいるアクションでしたが、アスリート委員全員が変化を求めていました。

ここまでの活動が認められたのか、特別委員会への出席が認められて、発言する機会をいただいたんです。時間がかかりましたが、認めていただけるようになったのかなと実感した瞬間でした。

また今年度からアスリート委員会に現役アスリートがオブサーバーで参加できる権利を得られました。10年かかりましたが、私たちアスリート委員会がずっとやりたかったことだったのでみんなで喜びました。

やはり直接話さないとわからないことも多いと思います。これからはコミュニケーションの機会が増えるので、より良い環境になることを祈っています。私は先日任期を満了したのでこれからは見守る側ですが、これからの水泳界が楽しみです。

ーこれからのスポーツ界の展望をお聞かせください。

すべての子どもたちがチャレンジをしたいと思ったときに、すぐにできる環境を整えてあげたいですね。その中でもパラ競技はまだまだ環境が少ないので、理解していただける人をもっと増やしたいと思っています。

あとは、子どもたちがスポーツをやっているときは笑顔でいてほしいです。大人の顔色を伺わず、自分の意思で決断ができる、そして思い切りチャレンジできる環境が大切です。そんな環境を整えてあげるのが、私たち大人の役割かなと思います。

ースポーツを楽しむ子どもたちが増えてほしいですね。最後に、ご自身の経験を通して伝えていきたいメッセージをお願いします。

周りの繋がりやご縁を大切にしてほしいです。夢や目標、悩みや喜びを人に話すことは勇気がいりますが、話すことでひとつひとつご縁を繋げ、自分の力になってくると思います。一人で抱え込まないことで解決できることも多いですし、世界が広がっていく楽しさも感じてほしいですね。

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