一度目の引退、二度の手術、渡り歩いた三つのチーム。元女子プロ野球選手・磯崎由加里が、ついに見つけた「最高の引退」

元女子プロ野球選手で、日本代表としても活躍した磯崎由加里(いそざき・ゆかり)さん。女子プロ野球のエースとしてチームを牽引し、現在は軟式野球を楽しみながら女子野球の普及にも力を注いでいます。

しかし、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。キャリアを左右する2度の手術、現役引退をめぐる葛藤。何度も立ち止まり、悩み抜いた日々。それでも彼女が再びマウンドへ向かうことができたのは、いつも背中を押してくれた母の言葉と、かけがえのない仲間たちの存在があったからです。

最高の仲間と「幸せな引退」を迎えるまでの道のりと、未来の女子野球界へ託す想いについて伺いました。

引退後に気づいた本心。「もう一度」を支えた母と仲間の存在

ーまずは、一度目の女子プロ野球を引退された当時の心境から教えてください。

引退を決めた時、特に次の明確な目標はありませんでした。プロとしての成績や、過去に手術した肘のことも踏まえ、自分の中で「ここで一度、区切りをつけよう」と決めたんです。

ただ、皮肉なことにコンディション自体は少しずつ上向いていたので、正直、モヤモヤした気持ちもありました。「今が一番いい辞め時」と言い聞かせながらも、どこか割り切れない自分がいて。それでも、このタイミングで身を引くことが自分にとってベストな選択だと判断しました。それにプロを辞めたら、もう野球を続けることはないだろうなと。当時は、他のチームで現役を続けたいというほどの強い思いもありませんでしたね。

ーそこから、なぜ再び野球の道へ戻る決意をされたのですか?

引退から1ヶ月ほど経つと、ほぼ毎日、野球のことばかり考えていることに気づきました。「女子野球がもっと広まるには?」「この野球の楽しさをどう伝えられるだろう?」と、私生活の中で常に考えていて。

一度は辞めたけれど、やっぱり野球が好きなんだなと改めて実感しました。野球から離れようとしても、日に日に思いは募るばかり…。ふと「野球、このまま辞められないな」って、心の底からそう思ったんです。

その本心に気づいてからは、もう迷いはありませんでした。選手として現役を続けながら自分にできることを探そうと決意し、再び野球ができる場所を探し始めたんです。

ー再び野球を続ける上で、支えになった存在はありましたか?

大きな支えになったのが、私より1年早くプロを引退し、クラブチームのエイジェックでプレーしていた元チームメイトの川端友紀選手と楢岡美和選手です。2人と会って話すうちに、「もう一度一緒にプレーしたいね」という会話が自然と増え、私の気持ちも固まっていきました。

そして何より、母の存在が大きかったです。人生の岐路に立つといつも母に相談するのですが、その時も「野球の道に進んだらいいんじゃない?」「選手を辞めて何年も経ってから戻るより、今やりたいことをやるべきよ」と背中を押してくれて。

いつも「あなたのやりたいことを応援するから」と言ってくれる母なので、最後の方は「そう言ってくれるだろうな」と分かって相談していたんですけどね(笑)。それでも、その一言が私の人生のターニングポイントであり、何よりの心の支えでした。

ーエイジェックに移籍後、コロナ禍で二度目の手術を経験されます。その時の心境は?

エイジェックに入団後、コロナ禍で試合が少ない中、試合中に怪我をしてしまい、二度目の肘の手術をすることになったんです。一度手術を経験しているからこそ復帰の大変さは分かっていましたが、「あと野球が何年できるか分からない」という思いもあり、後悔しないため手術に踏み切りました。

ですが、復帰後のシーズンは思うようにいかず、自分の中で「やりきれない」という不完全燃焼な気持ちだけが残ってしまって…。そしてオフに入り本格的に進路に悩み始めた私は、「もう辞めようかな」と母に弱音を吐いたんです。それでも母は、「野球が好きならやった方がいい。でも本当にそこで辞めるなら、違う道に進むのもいいんじゃない?」と、いつも通り私の気持ちを尊重してくれました。

はつかいちサンブレイズでの挑戦と埼玉西武ライオンズ・レディースへの移籍

ーお母様の言葉でご自身の気持ちと向き合っていた中、はつかいちサンブレイズへの移籍が決まります。どのような経緯があったのでしょうか?

母の言葉もあって、これからどうしようかと考えていた、まさにそのタイミングでした。はつかいちサンブレイズの監督で、元チームメイトでもあり同い年の岩谷美里(現・はつかいちサンブレイズ監督)から「チームの立ち上げから一緒にやらないか」と声をかけてもらったんです。

地元が山口なので広島は近かったですし、何より、新しいチームの立ち上げに一から関われることや、「選手兼任コーチ」という新しい挑戦にも強く惹かれました。同い年の彼女が監督として頑張っている姿を見て、「何か力になりたい」という思いも大きかったですね。

ーはつかいちサンブレイズでの2年間は、ご自身にとってどんな時間でしたか?

チームメイトは年下の子が多かったですが、みんな本当に頼りがいがあって、私自身が学ぶことも多かったです。特に、対戦するといつも手強かった西山(小春)選手が味方になったのは、心強かったですね。

また、はつかいちサンブレイズは『地域の方に愛されるチーム』をスローガンに掲げていて、選手みんなで近所のお宅を回り、お米を配ってご挨拶に伺う活動も実践しました。最初は「誰だろう?」という反応でしたが、続けるうちに顔を覚えてくださり、「応援してるよ」と声をかけていただけるようになりました。

私たちが元気を届けるつもりが、逆に地域の方々の温かさに支えられていたと実感する、本当に素晴らしい2年間でした。

ーそこから、なぜ埼玉西武ライオンズ・レディースへの移籍を決意されたのでしょうか?

実は、サンブレイズの練習が、本当に厳しかったんです。プロの時以上にキツかったんじゃないかと思うくらい(笑)。でも、そのおかげで、年齢を理由に回復が遅い、とか言い訳を作って逃げていた自分に気づかされました。「戦う相手は他人ではなく、昨日までの自分なんだ」と、意識が大きく変わったんです。

その積み重ねで少しずつ成績も上向きになり、「最後にもう1年、思う存分野球をやって、一番いい成績で辞めたい」という気持ちが強くなりました。

そんな時、大学時代の恩師である新谷博さんが監督をされていた西武ライオンズ・レディースからお話をいただいたのです。今の私の投球スタイルは、大学で新谷さんに指導していただいたおかげで生まれたもの。新谷さんの野球が大好きだったので、「最後はここでプレーしたい」と移籍を決意しました。

このチームでユニフォームを脱げるなんて…最高の仲間と迎えた「幸せな引退」

ー「最後の1年」と決めたシーズン、改めて振り返っていかがでしたか?

「最後は優勝する」という強い気持ちで臨んだシーズンでしたが、一番の目標だった大会では勝てず、悔しい結果に終わりました。

それでも、新谷さんやチームメイトが「もう1年一緒にやろうよ」と引き止めてくれたのは、本当に嬉しかったです。引退の決意は固めたつもりでしたが、その言葉に心は大きく揺らぎました。

ーそれでも引退を決意できた、一番の理由は何だったのでしょうか?

ずっと一緒にプレーしてきた二遊間、岩見香枝選手と出口彩香選手の存在です。出口選手は大学の後輩でもあり、この2人がいるからこそ、私は安心して腕を振り、私らしいピッチングができていた。実際に、毎試合そう感じていました。彼女たちは守備だけでなく、心の支えでもあったのです。

最後の大会で負けた試合も、2人が本当に素晴らしい守備を見せてくれて、そのプレーを見た時に、ふと「ここまで気持ちよく投げさせてもらえたなら、もう悔いはない。今が最高の引き際だ」と思えました。

優勝という目標は達成できなかったけれど、それを超えるほどの「やりきった」という気持ちが湧き上がってきたんです。葛藤はありましたが、この感情こそが、引退の最後の決め手になりました。

ーまさに、理想的な現役生活の締めくくりですね。

本当にそう思います。特に、仕事をしながら真剣に野球へ打ち込む後輩たちの姿には、「私ももっと頑張らなきゃ」と大きな刺激をもらいました。心から「チームメイトに恵まれたな」と感じています。

だからこそ「このチームでユニフォームを脱げるなんて、なんて幸せなんだろう」と、心の底から思えましたね。野球を始めた頃は、こんなに満たされた気持ちで引退できるなんて、想像もしていませんでした。

引退を決意してからは自分でも驚くほど「幸せだ」という感情が込み上げてきて…。そんな気持ちになれたこと自体が、私にとって何より幸せでした。

女子野球の魅力と、未来へ託す想い。SNS活用と12球団構想の必要性

ー改めて、磯崎さんが思う女子野球の魅力とは、どんな部分でしょうか?

どのチームも本当に元気が良くて明るいところですね。みんなで応援歌を歌ってチームを盛り上げ、仲間同士で活気を作りながらプレーするのは、女子野球ならではの魅力だと思います。

ピッチャーとしては、マウンドでその声に救われることも多いんですよ。逆にベンチがシーンとなると「やばい」って焦るんですけど、大抵すぐに誰かが声を出してくれます(笑)

それに、ただ明るいだけでなく、プレーも迫力があって見どころ満載です。ガッツ溢れるプレーも多く、スタンドインするホームランも。そういった女子野球の魅力を、もっと多くの人に届けていきたいです。

ーその魅力をさらに広めていくために、今後の女子野球界には何が必要だと感じますか?

以前は女子プロ野球リーグがありましたが、現在は、阪神、巨人、西武といった男子プロ野球チームを母体とする3つの女子チームが、女子野球界をリードしています。なので、ゆくゆくは12球団すべてに女子チームができて、子どもたちが「このユニフォームを着たい!」と純粋に目指せるような場所ができたら最高ですね。

私自身、ライオンズのユニフォームに袖を通した時、その歴史と責任の重みから「もっと頑張ろう」と身が引き締まる思いでした。

ー目標となるチームが増えることが重要、ということですね。

はい。それから、メディアへの露出がまだ少ないので、各チームのSNS活用もすごく重要だと感じています。以前所属していたはつかいちサンブレイズがTikTokで積極的に発信していましたが、その影響は本当に大きかったです。

野球教室に行くと、小学生の子たちが動画を見てくれていて、私がライオンズに移籍した後でも「サンブレイズにいた選手だ!」って知ってくれていたんです。各チームがそうやって女子野球の楽しさを発信し続ければ、魅力はもっともっと伝わるはずだと、肌で感じました。

ー近年、高校の女子野球部が急激に増えていますが、その背景には、やはりトップチームの存在が大きいのでしょうか?

この十数年で一気に増えたのは、やはり女子プロ野球リーグができた影響が大きかったんだと思います。プロを目指す子が一気に増え、それに伴って中学年代の選手も増えました。今では甲子園で決勝戦ができたり、東京ドームで試合ができたりと、「あの場所でプレーしたい」という、具体的で大きな目標ができたことも大きな理由だと感じています。私の時代は全国に5校しか女子野球部がなかったので、今の状況は本当に夢のようです(笑)

「結果」から「楽しさ」へ。軟式野球で見つけた、新しい野球との向き合い方

ー指導者として日本代表チームに帯同した経験は、ご自身にどんな影響を与えましたか?

代表は知っている選手がほとんどだったので、やりやすい面もある一方、一人ひとりの性格や課題に合わせて伝え方を変える難しさは痛感しましたね。

また、現役選手として自分の動きを見せながら指導できるのは、大きな強みでした。特に女子野球では、バント処理といったフィールディング(一連の守備動作)が試合を大きく左右します。先の塁でアウトを取れるかで一点の重みが全く変わってくるため、その重要性を具体的に指導できたのは、非常に貴重な経験です。

もちろん、選手から具体的な質問を受ける中で、私自身が学ぶことも多かったです。選手だった頃とは視点が変わり、例えばピッチャーの「もっと投げたい」という気持ちも分かりつつ、球数を管理するなど、少しは周りを見れるようになったかな、と思います。

ー引退後の今、野球とはどのように向き合っていますか?

今は、時々軟式野球の試合に、他の引退した選手たちと参加させてもらっています。硬式と軟式ではボールが全然違うので、得意だったカーブがうまくかからないんですよ(笑)
でも、その「どうすれば投げられるかな?」って試行錯誤するのが、新しい楽しさになっています。現役時代は常に結果を求めてきましたが、これからは純粋に野球の楽しさを感じながら、自分のペースで続けていきたいですね。

ー最後に、今スポーツを続けているすべての女性たちへメッセージをお願いします。

何よりも「好き」という気持ちを、一番大事にしてほしいです。もちろん、続けていれば苦しいこともたくさんあると思います。それでも、自分らしさを忘れずに、楽しんで競技を続けてほしいなと願っています。

というのも、私自身、最初は職業としてではなく、本当に「野球が好きだ」という気持ち一つで、ここまで続けてこられたからです。

新しいことへの挑戦は勇気がいりますが、「やらないで後悔するより、まずはやってみる」。その気持ちが、皆さんの毎日を、そして未来を、きっと輝かせてくれるはずです。

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