難病を乗り越え、再びピッチへ。元なでしこリーガー・松原有沙がフットサル選手として魅せたい「生きる希望」

元サッカー女子日本代表として活躍した、松原有沙(まつばら・ありさ)さん。一度は病のために現役を引退しましたが、現在は札幌市のフットサルチーム「Safilva BONITA(サフィルヴァ・ボニータ)」の選手として、再びピッチに立っています。

しかし、現役復帰までの道のりは決して平坦なものではありませんでした。それでも、なぜ彼女は再び立ち上がることができたのでしょうか。苦悩の日々から、再びプレーする喜びを見出すまでの、その心の軌跡について迫りました。

現役引退の裏側に、難病との闘いと心の葛藤

ーまずは現役引退の決断について、改めて当時の心境を教えていただけますか。

病気がわかってからは、選手を続けるか辞めるか、本当に悩みました。でも、悩んだ末にたどり着いたのは、「ここまでやれて幸せだったな」という感謝だったんです。自分の中ではやりきった思いもありましたし、病気は直接の原因ではなかったかなと。なので、病気はあくまで自分のキャリアを考える機会でもありました。

ーその決断に至るまで、大変な葛藤があったかと思います。今振り返ってみて、当時「これが病気の予兆だったのかもしれない」と感じる体の変化はありましたか。

主に頭痛やめまい、疲れの取れづらさが日によって現れることが多かったです。また、気分が落ち込むなどメンタル面での症状もありました。なので、そうした状況の中で競技を続けるのは、かなり難しかったです。

ー原因不明の不調から本当の病名にたどり着くまでの過程は、どのようなものだったのでしょうか。

最初に多発性内分泌腺腫症1型※の症状の1つである、「副甲状腺機能亢進症」と診断され、まずは投薬治療を始めました。ですが一向に体調は改善せず、それで手術をすることになりました。

※多発性内分泌腺腫症1型(MEN1):内分泌系の様々な臓器に腫瘍が多発する遺伝性の疾患。松原さんは2023年3月、自身の病名を公表した。

ー診断を受けたときのお気持ちを教えてください。

全く聞いたことのない病名だったので、最初は「そんな病気もあるんだ」と、どこか他人事のように受け止めていました。ですが、それが簡単に治るものではなく、一生付き合っていかなければならない難病だと知るにつれて、徐々にショックと不安が大きくなって…。

なので、実際に確定診断を受けたときは頭が真っ白になりました。一気に現実を突きつけられて、さすがに落ち込みましたね。

ー怪我とは全く違う苦しさがありますよね。その後の体調はいかがでしたか?

術後は数値も安定し、日常生活を送れる程度には回復しました。ただ、メンタル面は一回崩れてしまうと戻すのが難しく、気分の浮き沈みは今もあります。もともといろんなことを気にしすぎてしまう性格なので、その点は余計に辛いですね。

今でもこの病気を「受け入れた」かと言われると、正直、難しいところです。この病気は完治することはなく、症状が出ればそれを抑える、その繰り返しなので。終わりが見えないものに心を消耗しないよう、あえて深く考えない。それが、今の私にできる唯一の向き合い方なんだと思います。

苦渋した末、監督退任を決断。2度目の療養生活へ

ー現役引退後は、ノジマステラ神奈川相模原のアカデミーコーチに就任されました。どのような経緯があったのでしょうか?

もともと指導者には興味があって、現役中に資格も取っていました。当時は引退が決まって、手術を終えたばかりのタイミング。本来ならもう少し療養するべきでしたが、「次は指導者としてサッカーに関わりたい」という気持ちが強くて。その思いをクラブに伝えたところ、本当にありがたいことに「ぜひうちで」と、すぐに声をかけていただけたんです。

もちろん、病気のことや体調面の不安がなかったわけではありません。でも自分がやりたいことに挑戦できる喜びの方が大きかったですね。挑戦できる環境をチームが用意してくれたので、クラブには本当に感謝しています。

©︎ノジマステラ神奈川相模原

ーそしてU-15の監督に就任されてから、わずか数ヶ月での退任となりました。その決断に至った背景について、お聞かせいただけますか。

病気は手術のおかげで良くはなったものの、精神的にはまだ十分に休養が取れておらず、不安要素がありながらの就任だったんです。チームにはその状況を伝えていて、あまりにも体調が悪い時には1週間ほど休養をいただくなどのサポートを受けていたのですが、それもだんだんと難しくなってしまって…。

このままずるずると続けていくとチームにも迷惑をかけてしまうので、自分自身の体調を整えることを最優先し、退任という決断をさせていただきました。

困難を乗り越える仲間たちと共に。ソーシャルフットボールとの出会い

ー監督を退任された後、2度目の療養生活はどのようなものでしたか。

精神的には1回目の療養よりも辛かったですね。かなり追い込まれた状態で仕事から離れたので、北海道にある実家に戻ってからも何をするにもやる気が出ず、約3ヶ月間まったく外出できない日々。「こんなに何もしない一日があるんだ」と自分でも驚いたほどです。

ー何もできない状態から、どのようにして立ち直るきっかけを掴んだのでしょうか。

何か特別なきっかけがあったわけではなくて、本当に一歩ずつ、という感じでしたね。親と一緒に出かけることから始まって、だんだんと外出する機会が増えていきました。北海道には祖母や親戚もいたので、身近な人たちと会うことで自然と気持ちが和らいでいったと思います。また、親の趣味であるキャンプやドライブにも連れて行ってもらい、自然の中でのんびり過ごす時間が、心と体の回復を取り戻すきっかけになりました。

その経過を、通院していた先生に報告したんです。すると先生が、次のステップとして「体を動かしてみるのはどう?」と、ある活動を勧めてくれて。それが、ソーシャルフットボール※との出会いでした。

※ソーシャルフットボール :年齢・性別・人種・貧困・家庭環境・障がいなど、あらゆる違いを超えて社会連帯を目指したフットボールムーブメントのこと。(一般社団法人 日本障がい者サッカー連盟公式HPより引用)

ー初めてソーシャルフットボールの活動に参加されてみて、率直にいかがでしたか?

家族以外の人と関わるのは久しぶりだったため、最初は不安がすごく強かったです。ただ、その活動をしている精神科の先生が、なでしこ時代のチームドクターのお知り合いだったこともあり、打ち解けるのは早かったです。北海道には知り合いがおらず、誰かとのつながりもないと思っていたので、不安よりも嬉しい気持ちの方が大きかったですね。

実際の活動は、月に3回ほどみんなで集まってフットサルを行っています。事業所の方や、施設、病院の関係者の方々も参加されるので、多いときは30人ほど集まり、賑やかに活動しています。内容は毎回変わり、たくさんゲームをする日もあれば、初心者の方でも楽しめるように、最初に軽く練習を行ってからゲームに入る日もあります。

本人提供

それまでは外出するだけでも体調が悪くなってしまい、人混みのザワザワとした空間が本当に苦手でした。それでも、「ボールがある=楽しい」という感覚はずっと持っていたので、その場所にサッカーがつながっているのなら…という期待がありました。ソーシャルフットボールは、精神疾患などさまざまな障がいがあるなしに関わらず、フットボールが好きな人が集まる活動なので、自分にとって一つの安心材料になっていました。

ーさまざまな活動の中で、一番印象に残っている活動はありますか。

活動を始めて2ヶ月ほど経ったときに、函館で開催されたシンポジウムに参加したことです。普段は札幌近郊の方々と集まって活動しているので、函館のような離れた地域の方々と関わる機会はなかなかありません。だからこそ、このシンポジウムの場で一緒にフットサルができたことは、とても貴重で新鮮な体験でした。

ーシンポジウム以外にも、印象的な活動はありましたか。

函館に限らず、名寄などさまざまな地域から参加者が集まる地域活動の報告会にも出席しました。その際、いろんな先生方や保健福祉士、作業療法士の方々とお話しする機会があり、「自分なんかがここにいていいのかな?」と思いながらもとても勉強になりました。

ー活動を通して、新たに感じたことはありますか。

これまでブラインドサッカーやアンプティサッカーなど、目に見える障がいを持つ方々と関わる機会はありましたが、精神障害のような目に見えない病気を抱える方々と関わるのは初めてでした。最初に活動に参加したときは、「本当に病気を抱えていたり、障がいを抱えているのかな?」と疑問を持ったこともありました。

ですが、参加者の皆さんがただただ純粋に楽しくフットサルを楽しんでいる姿を見て、自分の中で大きな気づきがありました。ここでは体調のことを忘れて、とにかく楽しくフットサルができる、そう感じられたことがわかったので、ソーシャルフットボールに出会えて本当によかったです。

現役復帰を決断した背景。奇跡のタイミングで出会えたフットサルチーム

ーここからは、フットサル選手として現役復帰を決断された背景について伺います。現役復帰を決断されたのはいつ頃でしょうか。

ソーシャルフットボールを通して、純粋に「フットサルって楽しいな」と感じられるようになり、少しずつ心の余裕ができたからか、ふと「あの引退の仕方に、本当に後悔はなかったのかな?」と考え始めたんです。

指導者は何歳からでも挑戦できますが、選手としてプレーできる時間は限られています。30歳という年齢を迎え、「もう一度選手としてやるなら、今しかない」と。最後は、理屈よりも「選手としてプレーしたい」という純粋な気持ちが、何よりも勝りました。

あとは、最後ユニフォーム姿を親に見せられなかったこと。その心残りが、復帰を目指す一番の原動力になっていたと思います。

ー実際に復帰へ向けて動き出すとき、どんな経緯があったのでしょうか。

まずは北海道精神障害者スポーツサポーターズクラブの先生や病院関係者に相談したところ、札幌にあるチームを教えてもらいました。その後、ソーシャルフットボールの大会で運営の手伝いをしていた際に、たまたま豊川さん(豊川大地 ​総合型地域スポーツクラブSafilva代表)に出会い、そこで新たにBONITAを紹介していただいたんです。

ーそこからBONITAに入団を決めた理由を教えてください。

自分でチームのことを調べてみると、総合型地域スポーツクラブとして子供たちのスポーツの活動を運営していることがわかりました。さらに、楽しみながら活動する理念を大切にしていることを知り、その考え方にすごく共感したんです。病気のことも話した上で、練習に参加する前から「ここでプレーしたい」と即決しました。

©︎Safilva

ー引退直後は「やりきった」というお気持ちだったのが、ソーシャルフットボールを通じて、少しずつ心境が変化していったのでしょうか?

そうかもしれません。当時は「やりきった」と自分に言い聞かせていましたが、今思えば、それは「負けたくない」という意地だったのかなと。病気のせいでプレーできなくなった、と自分自身が認めるのが嫌で、必死に強がっていたんです。ソーシャルフットボールのおかげで、ようやくその時の本当の気持ちに気づけましたね。

ー復帰への不安もあったかと思いますが、それを乗り越えて「プレーしたい」と思えた、一番の決め手は何だったのでしょうか。

一番は、タイミングと人との出会いに恵まれたことですね。

自分が「フットサルをやりたい」と強く思ったタイミングで、豊川さんという素晴らしい方に出会えた。これは本当に奇跡的で、このご縁を大切にしたいと心から思いました。

それに、療養中に心配してくれた方々へ「元気になったよ」とプレーで報告したい、という気持ちも強かったです。そうした前向きな思いが、不安を乗り越える力になりました。

豊川さんをはじめたくさんの方々やチームの仲間が支えてくれているので、自分はただただ楽しんでプレーしたいと思っています。それが自分にできる恩返しの一つだとも思っています。

フットサル選手として、「生きる希望」になるために

ーサッカーからフットサルへの転向ですが、復帰する競技としてフットサルを選んだ理由を教えてください。

最初は、もう一度サッカーをやるのもいいなと思っていました。北海道にもいくつかチームもありますし、O-30という30歳以上の選手が出れる大会に出場できるチームに入ることも考えていたんです。

ですが、ソーシャルフットボールのおかげでフットサル関係の方々とのつながりができたので、やるならフットサルの方がいいかなと思いました。

ー実際にフットサルをプレーしてみて、サッカーでの経験がどれくらい生かせると感じますか。

サッカーとフットサルって全く別物だなと思います。ルールもプレーの仕方も戦術も違うので、今でもよく分からないままやっています(笑)サッカー用語があるのと同じように、フットサルにも用語があるのですが、意味がわからない言葉が出るたびに、チームメイトに聞きながら助けてもらっています。

でもその分、やりがいをすごく感じます。この年齢になっても成長できる部分があることや、新しい発見があることは大きな喜びですね。

ー最後に、フットサル選手として活動していく中で、目指している選手像や大切にしたいことを教えてください。

自分と同じように、外からは元気そうに見えても一生付き合わなければならない病気や、なかなか周りに理解してもらえない状況で不安や葛藤と闘っている方もいると思います。

そうした中、今こうして元気にフットサルをさせてもらえていることはすごくありがたいですし、自分の状況を理解し受け入れてくれたチームにも本当に感謝しています。こうして自分がフットサルができるようになったのは、数えきれない人たちの支えがあってこそです。今できることを全力で楽しみ、後悔のない人生を送りたいなと思っています。

そして、自分がフットサルやさまざまな活動をしている姿を見て、少しでも生きる希望を持ってもらえたり、SNSなどを通じて「こういう人もいるんだな」と感じてもらえたら嬉しいです。

©︎Safilva

 

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