「もう一度走りたい」車いすバスケ・清水千浪が病気を乗り越えて語る、スポーツへの愛と原動力
女子車いすバスケットボール選手の清水千浪(しみず・ちなみ)さん。20歳の時になでしこリーグ・アルビレックス新潟レディースに入団。約5年間サッカー選手として活動していた経歴があります。
引退後は大阪でパーソナルトレーナーとして働いていましたが、30歳で「褐色細胞腫」という病気を患い、下肢に障がいが残りました。その後、車いすバスケットボールを始め、約1年で日本代表候補に選出。パラリンピックにも、東京とパリの2大会に出場しています。
サッカー選手から車いすバスケ選手への転身を果たした清水さんがスポーツに関わり続ける理由やその思いについてお聞きしました。
目次
陸上、サッカー、パーソナルトレーナー。スポーツの楽しさに熱中した記憶
ーあらためて、清水さんのスポーツ歴を教えてください。
小学生で陸上を始め、中高まで部活動で中長距離をやっていました。昔からとにかく走ることがすごく大好きで、ずーっと走っていましたね。
ーサッカー選手を目指すようになったきっかけは何だったのでしょうか?
小学生の頃に澤穂希さんを見てから、ずっとサッカー選手への憧れの気持ちがありました。そこで大学では、サッカーができることと夢だった教員を目指せること、どちらも実現できる愛媛大学への進学を決めました。
四国代表としてインカレ出場も狙えますし、すぐ近くの強豪校・松山大学と一緒に練習できる機会があるのも魅力でした。
とにかく上達したいという気持ちで社会人や男子チームの練習にも参加させてもらい、サッカー漬けの日々を過ごしました。チームごとに違ったプレーの色に触れることに大きな喜びを感じていました。思い返せば自分でも驚くほどの行動力でしたね。
ーアルビレックス新潟レディースには、どのようなきっかけで行くことになったのですか?
大学生の頃、Lリーグ(現・なでしこリーグ)の大会サポートスタッフに誘われたことがきっかけです。初めてレベルの高い選手を目の当たりにして、そのプレーに衝撃を受けたんです。そこでサッカー選手になりたいと決意しました。
当時は、JAPANサッカーカレッジというサッカーの専門学校に入学すると、チームのトライアウトを受けられる機会がありました。専門学校で資格を取れば将来働き先に困ることもないだろうと思い、大学を休学してトライアウトを受けたところ、アルビレックス新潟レディースに合格し入団することになりました。
ーJAPANサッカーカレッジに入学後は、サッカー選手としての活動と並行してスポーツトレーナーの勉強もされています。トレーナーの仕事に当時から関心があったのですか?
実はアルビレックスに入団して3年、専門学校があと1年残っているタイミングでクビになったんです。けれど、アルビレックスの仲間や、高いレベルでプレーすることに楽しさを感じていたので、「まだサッカーを続けたい」と思っていました。
周りの方に相談し、最後の1年間はJAPANサッカーカレッジの男子チームと一緒に活動させてもらえることになりました。一緒にトレーニングを始めると自分の体が大きく変化したことを実感しました。結果的に1年後トライアウトに再挑戦し、合格することができたんです。
この経験がきっかけとなり、選手生活が終わったらトレーナーという仕事に就きたいなと思うようになりました。
ー25歳でサッカー選手としての引退を決断されます。どのような経緯だったのですか?
陸上をしていた頃から膝が悪く、高校2年生のときに半月板をすべて摘出する手術をしていたんです。他の選手以上にトレーニングや身体のケアを大切にしていたのは、この怪我の経験も影響していると思います。
リハビリを続けながらなんとかプレーしていたのですが、「これはもう走るべきではない。80歳レベルの膝だ」と言われてしまい……手術すらできない状態だったようで、引退を決断しました。続けられるのであれば、まだまだ現役でいたかったです。
ー引退後はパーソナルトレーナーの道に進まれました。
今は一般的になったパーソナルトレーニングですが、当時の通っている方はプロスポーツ選手などがほとんどでした。なので最初は緊張することも多かったですね。
さらに知識やプレー経験があっても、それをうまく伝えられないもどかしさもありました。仕事に慣れてくると、担当した人たちがトレーニングによって目標を達成していく姿にやりがいを感じるようになり、約5年間この仕事を続けました。
病気を経て、パラスポーツを始める。きっかけとなった一言
ーパーソナルトレーナーの仕事に熱が入る中、突然病気が判明します。改めて当時のことを教えてください。
ある日、差し入れでいただいたロールケーキを食べたところ、急にひどい吐き気に襲われました。賞味期限ギリギリだったので、それで気分が悪くなったのかなと思っていたのですが、少し様子がおかしく、自ら近くの病院にタクシーで向かいました。
そこで診察してくれた先生が、「救急車を呼ぶので今すぐ大きな病院に行きましょう」と。
毎日体重や血圧を測るなど、健康管理はバッチリやっていましたし、本当になんの前兆もなかったんです。当初は「大げさだな」と思ったのですが、優しくも強い口調で勧められ、不安になり指示に従いました。自ら救急車に乗り込んだあたりから、症状は急激に悪化していきました。
最終的に診断されたのは「褐色細胞腫」という希少がん。腫瘍から過剰に分泌されたホルモンが、血管を収縮させてしまう症状が引き起こされます。一時は心肺停止に陥るほど深刻な状態でした。
ー突然の発症を受け入れることは難しかったのではないでしょうか?
正直仕事のことを考える余裕は全くありませんでした。発症後は、ICU(集中治療室)でとにかくぼーっとしているだけ。声を出すことも水を飲み込むことも寝返りを打つこともできませんでした。病気を受け入れるというより、目の前の治療を頑張るしかないという思いでした。
ーそこからスポーツに再チャレンジしようと思った理由は?
トレーナー時代、チェアスキーの狩野亮選手を指導していたことがきっかけです。パラリンピックでメダルを取るために準備する過程をずっと見ていたので、パラ競技ってカッコいいなとずっと思っていたんです。
入院期間中、狩野選手がお見舞いに来てくれて、日常用の車いすをわざわざ持ってきてくださいました。 初めて車いすに乗ったところ、感動するほど早く漕ぐことができて。「せっかくだからパラスポーツやってみたら?」と言ってくれたんです。
ー車いすバスケを選んだ決め手はなんだったのですか?
はじめは他のスポーツも視野に入れていました。いろいろな競技を見に行き、その中のひとつが車いすバスケでした。
そこで見学に行ったのが現在所属している『カクテル』というチームです。ここがとにかく面白いチームだったんです。関西ノリでみんなすごくお喋りなんですけど、日本代表選手が半分以上、監督もパリオリンピックの監督を務めた方なんです。世界一の選手を目指すハイレベルな練習をしていて、「どうせやるなら強くなりたい」と、カクテルで車いすバスケを始めることを決めました。
現在は、カクテルに加えて『LAKE SHIGA BCC』という男女混合チームにも所属してプレーしています。
そもそも車いすバスケは女子の競技人口が少ないという現状があります。そこで男子チームにも参加して実践経験を積もうという理由で、他の選手も積極的に他チームの活動に参加しています。

<写真提供:本人>
得意ではないからこそ、のびしろがある。車いすバスケにハマった理由
ー車いすバスケの魅力はどこだと感じていますか?
車いすバスケは、健常者のバスケとルールがほとんど一緒で、違いは競技用の車いすに乗ること。さらに、多くの方が車いすに乗れば同じ条件でプレーできることも魅力です。
ー選手として見てもらいたいところはありますか?
車いすバスケ独自の持ち点制度には注目してもらいたいですね。
パラスポーツなので、いろんな障がいを持っている選手がプレーしているのですが、選手には1から4.5まで0.5点刻みに点数がつけられていて、コート上の5人の合計点数が14点より少なくなければなりません。私は中間の3点という持ち点がついています。
実は健常の方も国内の大会に出れるのですが、その場合は4.5の一番高い持ち点になります。例えば、4点の選手が5人出場しようとすると計20点となり、試合ができません。
つまり、障がいが重い人も軽い人も、まんべんなくコートにいることが必要になってくる。すごい素敵なルールなんです。
ー健常者も大会に出られるんですね。
最近はありがたいことに健常のプレーヤーがすごく増えてきています。今までは人数が足りず、練習にならないこともあったのですが、試合形式での強度を上げた練習もできるようになっています。
参加している健常者は医療関係の人が多いように感じます。医療関係の方々が一緒にプレーして、魅力を伝えていただけるといいのではないかと思いますね。
私は病気になっていた時、あまりパラスポーツのことを聞く機会がありませんでした。患者としては入院している時に少しでもパラスポーツに触れる機会があれば良かったのになと思うこともあります。外出して見学に行くとか、あってもいいのになあと。今後病院などにも足を運び、車いすバスケの面白さを伝えていきたいです。

<写真提供:本人>
ー清水さんご自身も入院中にきっかけがあったからこそ、車いすバスケに出会っていますよね。
そうですね。車いすバスケは年齢や体格に関係なくチャレンジできる競技だと思うんです。実際、80代の方が車いすバスケをやっている姿を見たこともあります。「コート上の格闘技」とも言われているので、危ない競技だと思われているかもしれませんが、思っているよりも安全です。
車いすバスケを通じて、自分と同じ悩みを抱えている人に出会えることもあります。パラスポーツをきっかけに、相談仲間と出会えることがとても有意義だと思っています。
ー陸上やサッカーをやっていた頃と比べて、身体との向き合い方に変化はありましたか?
いま一番大事にしていることはピリオダイゼーション。通称、期分けです。
車いすバスケには決まったシーズンがないので、チームを掛け持ちしながら代表活動にも参加している時期はかなり忙しく、大会が被ってしまうこともあります。大会に向けてどのように自分のベストを持っていくか、計画的に頑張る時期と休む時期を決めています。
また私は体質的に体重が増えづらいので、トレーニングに加えて食事管理にも気を遣っています。怪我をした経験もあり、きちんと計画を立てて練習や大会に挑むことは人一倍意識して取り組んでいます。
ー車いすバスケを始めたことで、新たな気づきはありましたか?
私はスポーツがすごく好きですが、得意だとは思っていません。だからこそ余計ハマっているのだと思います。得意じゃないからこそ、やったらやっただけ伸びしろがあるんです。上手くできた喜びの積み重ねで、今も続けていられるのかなとは思いますね。
まだ伝わっていないパラスポーツの魅力を自ら伝えていく
ーパリパラリンピックは全8チーム中7位という結果でした。振り返っていかがでしたか?
メダルを目指して戦っていましたが、できることを全部やり切ったので結果には納得しています。
というのも前回の東京大会では数点差で負けたゲームもほとんどなく、大差をつけられて敗戦していました。けれど、パリでは僅差のゲームもあり、最後の7位決定戦を勝って終われたのは、今後に繋がる経験になったので前向きに捉えています。
ーnoteやInstagramの発信も積極的に取り組まれています。どんな思いでご自身の経験や活動を発信しているのでしょうか?
まずは「パラスポーツの魅力を伝えたい」という思いが一番にあります。東京、パリと2大会のパラリンピックに出場させていただき、日の丸を背負って戦うことにやりがいを感じました。
けれど実際試合をどれぐらいの人が見てくれたのか、パラリンピックでの盛り上がりがその後も続いているかというと、まだまだだなと感じています。やはり選手自身が発信して、競技を広めてもらうことが一番なのかなと。
パラスポーツには、まだまだ皆さんに伝わっていない魅力がたくさんあるんです。パラスポーツの面白さを知った今だからこそ、まだ魅力を知らない人にも伝えたいなと思っています。
また、病気の経験を伝えたいという気持ちもあります。私自身、病気になった時、何も分からず不安な気持ちになりました。私が入院中に助けてもらった言葉や生きていくためのヒントを届けて、少しでも励みになればいいなと思いますね。
入院中にnoteをアップした時には、看護師さんが読んでくださり「感動した」と声をかけてくれてとても嬉しい気持ちになりました。今後もリハビリの途中経過をアップできればなと思いますし、講演会や体験授業なども行っていきたいです。
ー最後に、さまざまな形でスポーツに関わってきた清水さんがスポーツを通して伝えたいこと、今後やっていきたいことはありますか?
私はスポーツに出会い、それを通じて社会とつながりを持てていることが何よりワクワクすることなんです。スポーツをやっている時はいつも自分らしくいられます。皆さんも自分が熱中し、ワクワクできることを是非見つけてほしいなと思います。
そしてもうひとつ、自分の中で大きな目標があります。それはもう一度「走りたい」ということです。
昨年の手術を経て、歩行での傷のリスクが軽減されました。足の感覚がなかったり動きの悪いところがあり、正直走ることはまだまだ難しいです。けれど、本当に走れるかどうかそんなことはどうでも良くて、挑戦し続けることに意味があると思っています。最後はサッカーのリフティングができるようになるまで治療やリハビリを諦めず継続していきたいです。

<写真提供:本人>