ママアスリートには、言い出せない苦しみがある。フリースタイルスキー・上野眞奈美が振り返るソチ五輪への道
フリースタイルスキー・ハーフパイプ競技で、2014年のソチ五輪出場を果たした上野眞奈美さん。2009年に一度引退し、第一子を出産しました。その後2014年ソチ五輪でハーフパイプ競技が正式種目になったことを受けて、産後1年で競技復帰を果たしました。
新たに始まった、五輪への挑戦。子どもの存在を原動力に世界の舞台に向けて準備し続ける一方で、苦しいこともあったと話します。
現在は、自身の産後復帰の経験を伝えていきたいと、一般社団法人「MAN(ママアスリートネットワークの略称)」を立ち上げて女性アスリート支援の活動を展開されています。
「ママアスリートが頼れる場を作りたい」。このように強く感じるきっかけとなった産後復帰の経験についてや、今後の活動の展望についてお伺いしました。
子どもがいたから、決まってもいない五輪に向けて努力を続けられた
ー「2009年FISフリースタイルスキー世界選手権猪苗代大会」の後一度引退された時は、どのようなセカンドキャリアを描かれていたのでしょうか?
もともと、早い段階で子どもが欲しいと思っていたんです。大学時代から付き合っていた彼(今の夫)とも、「大学卒業後、(2010年)バンクーバー五輪を集大成にして引退する。そこからはしっかり子育てがしたい」と話していました。
結局、バンクーバー五輪ではスキーハーフパイプが正式種目として採用されず、世界選手権で引退することになりました。引退後すぐに長女を授かったことを機に、夫の地元に戻ってスキー・スノーボード事業を始めました。ここまでは、セカンドキャリアとして思い描いていた通りでしたね。
ー引退された後のタイミングで、2014年のソチ五輪でスキーハーフパイプが正式種目として採用される可能性が高まりました。復帰について、かなり悩まれたのではないでしょうか?
夫から「どうするの?」と問いかけられて、すごく悩みました。でも、復帰するなら五輪しかありえないなと。チャンスがあるなら挑戦しようと思いました。
ーやはり、五輪は他の大会と比べても特別な大会なのでしょうか?
スキーは、まだまだマイナーなスポーツです。競技について知って欲しいという思いは大きいので、世界中の注目が集まる五輪へは出場したかったです。
アメリカで開催される「Winter X Games」にも参加しましたが、アメリカのTV局が主に放送するため日本ではあまり知名度が高くありません。圧倒的に見る人が多い五輪で、スキーの魅力を伝えたいという思いが大きかったですね。
「Winter X Games」:さまざまなエクストリームスポーツ(過激な速度や難度など、危険性の高いスポーツの総称)を集めたスポーツイベント。会場観戦は累計600万人と注目度の高い大会である。
ー決意した一方で、不安なこともあったのではないでしょうか?
全てが不安でした。復帰を決意した時も、種目の採用が正式には決まっていなかったです。子育ても初めてですし、いろんな葛藤がありました。
ーそれでも挑戦を決意したきっかけは、どこにあったのでしょうか?
子どもの存在があったからです。子どもが夢を持った時に、「諦めずに頑張りなさい」「やりたいことがあるなら全力で取り組みなさい」と100%背中を押してあげられる親でありたいと思ったんです。
親として背中で見せていくためにも、今目の前にあるチャンスに挑戦しなければならないと思いました。「子どもの存在が、こんなにも頑張れる理由になるのか」と驚いたのを覚えています。
成功するかはわからないけれど、「やれるところまでやりきる」というのが私の答えでした。目標に対して、どれだけ向き合う時間を作ることができるか。不安や葛藤があるとしても、邪念にしかなりません。不安要素を取り除きながら突き進むしかないと思いました。自分の中で強い女性になれた瞬間だったと、振り返ると思いますね。
ーお子さんがいたから、五輪に出場できたとも言えるのですね。
はい。あそこまでは頑張れなかったと思います。逃げずに小さい光を追い続けられたのは、間違いなく子どもの存在があったからですね。
妊娠中からできることも。出産後のコアトレーニングの重要性
ーいざ復帰する時の身体の状態は、どんな感じでしたか?
復帰を決めたタイミングが産後1年だったので、ある程度は身体が戻っている状態でした。産後復帰することを見据えていたわけではありませんが、習慣として妊娠中に運動していたのが良かったと思っています。
ー妊娠中も、トレーニングされていたのですね。どのようにトレーニングをされていたのですか?
子どもの人数によって自由な時間が限られるので、やり方は変わっていきました。一人目を出産したあとは比較的時間があったので、パーソナルジムに通っていました。フリーウェイトやダンベル、トレッドミルなど基本的な筋力トレーニングをしていました。ただ、出産を誘発しないようにするために、お腹にはなるべく力をかけないようにしていました。
二人目、三人目となると、育児に時間を取られます。日常がトレーニングになりました(笑)。抱っこやおんぶをしながら、何かをすることがほとんどです。1年も経てば子どもは10キロくらいになるので、重りを背負った状態で日常的に過ごすことになります。買い物へ行った帰りは、さらにプラス5キロくらい持っていました。かなりの体力勝負です。
ーやって良かったと感じるトレーニングはありますか?
産後復帰においてアスリートが最初に取り組むべきなのは、骨盤底筋のトレーニングです。骨盤底筋とは、骨盤の底部を覆うようにある骨盤底筋群のこと。内臓が下がらないように支えたり、体幹を安定させ姿勢を保ったり、さらに排泄等をコントロールする働きがあります。出産すると骨盤底筋に過剰な力がかかり、伸びて緩みやすくなるんです。どのスポーツにおいても土台であり不可欠な体幹。骨盤底筋を鍛えることは、産後復帰に欠かせません。尿もれや子宮脱の対策にも繋がります。
子宮脱:骨盤の中にある子宮を支える筋肉が緩み、子宮の一部または全部が膣から脱出してしまう病気。
骨盤底筋トレーニングは、座りながらなど意識を集中するだけでできるので、妊娠中にも取り入れていました。腹筋や背筋、大臀筋のように動かすと実感がある大きな筋肉ではなく、細かい筋肉なので、他の筋肉と連結して動かすのが良いと思います。具体的には、下記のようなトレーニングです。
①肛門を閉める、お尻の中心線にキュッと寄せる。
※「おしっこを我慢する」「おしっこを途中で止める」際に起動する筋肉なので、その意識でやってみてください!
②太ももの内側にタオル等を挟んで内転筋(内ももの筋肉)を使う。挟む場所は膝寄りよりもお股寄りの方がbetter。10秒×数セット。体力に合わせてトライすると良いと思います。
ーアスリートに限らず、取り入れられそうです。
そうですね。競技中もコアの重要性を改めて感じるようになりました。「コアを鍛えると、こんなにパフォーマンスが変わるんだ」と。特にスキーはバランスが大事なスポーツで、コアの強さがモノを言う競技です。
出産前は実戦を中心に練習することが多かったのですが、子どもができてからは極力怪我をするリスクを抑えるため、雪上以外でのトレーニングの時間を増やしました。これが結果としてコアの強化に繋がり、パフォーマンスが向上したと実感しています。出産前はトレーニングが実践にどう活きるのかがわからず、本気で取り組めていませんでした。出産を経て身体の動きと向き合い、理解できたのが良かったです。
ー逆に、振り返ってみて「もっとこうすればよかった」と思うことはありますか?
もっと自分の理想と向き合っていたら良かった、と思います。単純に、世界一の選手と全く同じ動きができれば、世界一になる可能性は高まりますよね。世界一になれないのは、トップ選手と動きが異なるから。敵を知らずして戦えません。より深く他の選手を分析すれば良かったと思っています。自分ができていないことを潰していけば、早く上達したと思います。
ママアスリートが「つらい」と言える、支えとなる場所を作りたい
ー産後復帰の経験を経て、2014年にスポーツ庁の事業一環として「ママアスリートネットワーク」を設立されました。どのような思いから、立ち上げられたのでしょうか?
アスリートとして出産を経験する中で、心のサポートをしてくれる場や体制がなかったこと、産後復帰に関する的確な情報が少ないと感じたことがきっかけです。
私自身、国立スポーツ科学センター(JISS)で産後復帰のサポートをしていただいていました。その繋がりもあって、私の思いや経験を伝えていくために「実際にプロジェクトとして立ち上げてはどうか」という話になりました。
私が出産した当時は、「妊娠中に運動をするのは良くない」という考え方が強かった時代です。情報がなかったので、運動をしているとよく心配されました。でも産後急に動き出し始めるより、できることをやっておいた方が後々効いてくるだろうと思ったんです。
私と同じように悩む女性の方はきっと、多い。出産時からそう感じていて、実は自分のトレーニング経験に基づいて本を出版しようと準備していました。でもいざ出産後に出版社を回ってみると、「正しいとは言いきれないから、責任が取れない」という理由から全て断られました。
今でこそ産後復帰に関するコンテンツは増えてきましたが、まだまだ「具体的にどうすれば良いのか」を伝えているものは少ないように感じます。もちろん人によって差があるので一概には言えませんが、自分の経験がヒントになればいいなと思って活動しています。
講演をする上野さん
ー「心のサポートとなる場所が欲しかった」と。どういったことが辛いと感じられたのでしょうか?
一番苦しかったのは、「つらい」と言えなかったことです。家族や親しい友人が協力してくれているからこそ、弱音を吐くことができませんでした。あとはシンプルに批判の目が辛かったです。
「子どもが泣いているのに、(トレーニングなんかして)何をしているの?」と。意外と身近な人から言われたりすることもあって、ダメージが大きかったです。身近な人に理解されていないという現実を、黙って受け止めるしかありませんでした。
ある時、バギーに子どもを乗せてランニングをしていたら、「二人三脚で頑張っているわね、お母さんと一緒に走れて良いね」と声をかけていただいたことがありました。この言葉にとても救われたことを、今でも覚えています。
ー2020年には、新たに一般社団法人「MAN」としてスタートされました。
スポーツ庁のいち受託事業だったので、いつかはスポーツ庁からのサポートがなくなります。せっかく作った組織で、アスリートが繋がれる場にもなっていたので残したいと思い、法人にすることを決めました。
ー今はどういった活動をされているのですか?
現状、2022年1月にアスリート向けのオンラインイベントを実施したのが最後です。産後復帰したアスリートの声を聞きたいという依頼がメディアから来ることがあるので、今はその講演費を事業費にしています。団体として新たなアクションを起こそうと思えば資金が必要になるので、そこをどうしていくのかが課題となっています。
ー陸上競技の寺田明日香さんや、バレーボールの荒木絵里花さん、バスケの大崎佑圭さんなど産後復帰されたアスリートも多く「賛同アスリート」として関わられています。彼女らを巻き込んで今後やっていきたいことはありますか?
組織としてどのような方向性で、具体的に何をやっていくのか、改めて考えていきたいと思っています。個人的には、すでにあるメディアをある程度活用していくことがやりやすいのではないかと感じています。それを、アスリートが発信して広めていくことが最も効果的でシンプルなのかなと。
ー「B&」でも、出産・育児中の女性へ、アスリートの経験を通じて伝えられることを発信していきたいと思っています。最後に、産後復帰を考えられているアスリートの皆さんに一言伝えるなら、どのようなことを伝えたいですか?
自分らしい人生を送ることが大切です。自分でそう決めたなら、絶対に良い方向に進んでいくと思います。自分が思う幸せに向かって、歩んでいただきたいですね。
上野さんと娘さん
出産後、ヨガやピラティスにも取り組んでいる